雷と雨あり

朝から母方の祖父母宅を訪問してきた。お正月以来なので久しぶり。別に何をするわけでもなく、祖母のとっても美味しいご飯(昼食と夕食。高野豆腐の煮物、茄子とじゃがいものお味噌汁、ウナギのかば焼き。チキンのソテー、エンドウマメとキャベツとベーコンのスープ、サラダ。とにかく汁ものが超美味!)を御馳走になりながら、ひたすらお喋りしていた…。米寿になる祖父と色々話した。私が1月にフロリダ・ハワイに行った話も、2月にタイに行った話をした。祖父からも色んな話を聞いた。廊下の板が松で、前の離れから取ったから150年くらい前の木だとか、昭和47年にシンガポールで学会があって、そのついでにバンコクやバリ島やジャワ島やクアラルンプールに寄って、クアラルンプールが非常に良かったとか。

あと、祖父の留学時代の話も聞いた。祖父は循環器内科医だが、1963年から2年間、米国のCleveland Clinicに留学していた。当時留学先で一緒だった人に、日本に初めて冠動脈造影と最新の心臓外科手術を持ちこみ、順天堂大学の循環器内科・外科教室を作った人たちがいるのだそうだ。こないだ今上天皇の手術を行った教室は、もともと彼らが作ったんだと言っていた。あと、世界で初めて人工心臓を開発した人も当時Clevelandにいたらしい。阿久津さんという方(さっき見たらWikipediaのページがあった)。祖父が行ったときには既に長いことClevelandにいたそうなのだが、彼はなかなか正規のスタッフになれなかったのだそうだ。Cleveland Clinicは当時、ユダヤ人も黒人もおらず、日本人でも微妙という感じだったらしい。阿久津さんは正規スタッフになれないのは英語ができないからだと言って、英語のクラスに通われていたそうだ。その後、阿久津さんは請われてNewYorkに移り、そのあとミシシッピで教授になり、祖父に「もうずっとアメリカにいるつもり」と言っていたそうだが、結局年をとってから戻ってくる気になったのらしく、国立循環器センターに戻ってこられたのだそうだ。「うちにも来たことがあって、ずっと連絡を取っていたが、このところとんと音信がない」と言っていた(帰宅後調べたら、阿久津さんは2005年に亡くなられていた。次に行ったときにはおじいちゃんに教えないと…)。ちなみにこんなページも見つけた。祖父の話に出てきた名前が色々見つかる。

http://www.jhf.or.jp/shinzo/mth/images/History-37-5.pdf

祖父が留学していた当時、Clevelandには日本人は「沢山いて」、5~6人だったというから、非常に狭い世界に、日本の循環器医学史のとても挑戦的な部分が詰まっていたことになる。そういう話を当時そこにいた者として祖父の口から語られるのは、なんだかちょっとびっくり!という気分だった。全員「くん」づけとか「さん」づけだし。細かい面白話も聞けて楽しかった。

深刻な話も聞いた。昭和40年代~50年代の心臓外科手術では「新鮮な血液が大事だ、必要だ」と医師の間でも「信じられて」いて、知人・ボランティアなどを手術の際に呼び、必要に応じてその場で直接輸血をするということがよく行われたそうだ。そのために、心臓手術を受けた人は術後きまって必ず黄疸にかかって(=肝炎ウィルスに感染し、肝炎にかかって)、循環器内科に戻ってきたのだそうだ。「必ず戻ってくんねん」と言っていた。当時肝炎ウィルスが知られていなかったからだそうだ。また、手術も当時は素手で行われていて、呼吸器(結核の手術)や循環器(心臓手術)の外科医師は血液を浴びることも多く、けっきょくみんな肝炎にかかり、祖父の同僚でも肝がんで亡くなった外科の先生が沢山いたそうだ。命がけやんか、というと、命がけやで、と言っていた。「労災はおりひんの」と訊くと「当時はそんなもん、何も知られてへんもん。後でウィルスやってわかったんやからな。当時はおりひんわ」とのことだった。本当にたいへんな災害だ、と思う。今の安全な輸血・手術は、こういったことがあってのことなのか、と大変勉強になった。

あと、祖父から腰痛体操を習った! これが大変によい。腰痛はどういう原因で起こるか、どういう椅子を選ぶべきか、色々アドバイスしてもらった。聞けば祖父も腰痛持ちだったらしい。ちなみに関係ないが、祖父と私の足の骨格はとても良く似ていて、なぜか左だけが外反母趾(気味)である。祖父は既に外反母趾で、私にはその気があるということ。遺伝やな、しゃーないな!と言って笑った。私や私の妹が何となく海外生活に親和的なのも、きっとこの祖父からの遺伝だと思う(父方祖父が物凄く社交的だったのでそっちの影響もあるかも)。何せ、祖父も祖母も変わらず元気そうで何よりだった。次に来るのは暑くなってからになると思うけど、また楽しく色んな話をききたい。