やはり雨気味

本日月曜日。しんどいが頑張るしかない。今日はとにかくG講義の15回目を作った。まずレポート課題を作ってから教材を整えたのでいろいろ大変だった。昼までに終わるかと思いきや昼下がりまでかかり、しんどくて気絶したあと、石の写真を撮り片づけもしたらお迎えの時間になった。

Kに離乳食を食べさせ終わってから、夕食をとる前に、母校のIs先生からメールが来た。I先生の訃報だった。こうなる可能性があるとはもちろん知っていたけれども、せめて定年退職されるまで、そのときにもう一度京都でお目にかかりたいと、そればかりずっとずっと思って期待して信じていたので、それをまったく待つことなく他界されてしまったことが、ショックで悲しかった。がんが判明してから1年もたなかったことになる。ご本人もそれはある程度予測されていただろうけれども…。いろいろ思い出はあるはずなのに、いざ思い出そうとすると断片的なことばかりが思い出される。ラテン語の辞書をもらったり、趣味の本をもらったり(ファンタジーの本とか)、木のおもちゃの本を貸してもらったり、望遠鏡をもらったり、お嬢さんの保育園でピアノをひいたり、ご実家のお野菜をもらったり(玉ねぎやジャガイモ)、タイプライターをもらったり、Kにおもちゃをもらったり(もらった話ばっかり)、もちろんその他にも出版の仕事、Tの翻訳をはじめとして、他の翻訳の仕事にもアドバイスをもらったり、事典の編集幹事の仕事でご一緒して緊張したり、それ以外にただ単純に研究室を訪問して1時間くらいいろんなお話しをしたり、木のおもちゃとかお嬢さんのこととかラジコンとかバードウォッチングとか出前授業とかもちろん論文の書き方とかいろんな話をしたこととか、よくティディベアのかわいいトレーナーを着ておられたなとか、コンピュータにめちゃお詳しかったこととか、いつもMac使いだったこととか、お嬢さんの写真を研究室にずっとはっておられたこととか、姪御さんの下宿探しを手伝ったこととか、D先生のトラブルに一緒に巻き込まれたこととか、例会の懇親会でハーバードの先生とイタリア語で話し込んでおられてついていけなかったこととか、イタリア留学時代の話を伺ったこととか、建築関係の資料を持っておられるという話をきいたこととか、おもえば院試も博論の口頭試問も先生の研究室だったな、とか。いざというときに、何だかんだいって、話をきいて相談に乗ってくださる方がいなくなったのだなあとしみじみした。ある意味「親」がいなくなったような、そんな気分なんだろうと思う。実は前からそうだったのだけれども、これからは本当に自力でどうにかしないといけないんだなあという気持ち。まあ本当は前からそのようにしてるんだけれども。気持ちとして。コロナがなければ必ずお式に参列したと思うのに、大変な僻地で、なにより私は車の運転をしないので現地にどうしてもたどり着けない。コロナがなければだれかに相乗りさせてもらったんじゃないかという気がする。でもとにかく、現地に行くのは難しいし、この感染状況ではやはりはばかられるのだった。供花は共同で、そして個人で長い弔電を打つことにした。9月30日のあのときに、いつもはドアのところでお別れするのに、わざわざエレベーターホールまで見送ってくださって(本当にわざわざ)、私はあれっと思いつつも、もしやもうこれで会えないと先生は思っておられるのか…と感じつつ、それでもあのとき私は必ずまた会いたいという気持ちをこめて「それではまた」と言ったのだけれども、そのままいつも通りの様子で見送ってくださった、それが本当に最後になってしまった。個人でメールをしたのは12月が最後だった。仕事の同報メールでは5月。こんな形でお別れをすることになるとは思っていなかった。退職記念パーティもなければ、先生の退職後の楽しみのお話しを聞くこともできなくなってしまった。こうやって書いてみて思えば、私は先生とお話しするのが楽しくて好きだったんだなあと思う。就職してからは会う機会が少ないので、学会で会った時には声をかけてお話しできないかなあと思ったものだった。先生とはもう永久にお話しできなくなってしまった。もっとお話しすればよかった。思えばできの悪い学生だった。学部生のときも院生のときももっと勉強すればよかったし、先生からもっといろんなことを学べばよかったと思う。まあ先生もそんなに教えるほうではなかったけれども、もっとやれたことはあったのではないかと…。院生のころ、研究者は生き残った者が勝ちなの、死人に口なしだよ?と仰っておられたのに。

とにかく今年度の代講をしっかりやって、あとはいずれおそらく奥様が京都の片付けに来られるし、そのときにできる限りの手伝いをするほかない。そしてやり残して託されたvNの仕事を完成させるほかない。その他にできることはないのだった。コロナでなければ、門下生で集まって先生を偲ぶこともできたのかもしれないが、それもできないのが寂しかった。先生、20年間本当にお世話になりました。どうぞ安らかにお休みください。