雨と曇り

朝から全然やる気が出なくてちょっとDVDを見た。とりあえず今日はD論の要旨を作ることにした。前に出したのはかなりクオリティが低かったので手を入れなければならない。やる気がなくて大変だったが、何とかやり遂げた。とりあえず着々と仕事は進めている。それから、学生の報告書にコメントをつける作業を夜まで。

福島から取り寄せた川中島白桃が届いた。さっそくひとつ食べてみたが、流石に美味しい。

仕事の気分転換にレイトショーで「風立ちぬ」を見たが、あまり気分転換にならなかった。これほど楽しくない映画はちょっと覚えがない。そもそも大正末期から昭和初期の飛行機ものというところから救いがない。追い付け追い越せで頑張って、戦争に突入し、敗戦し、国内での飛行機開発は不可能になるという行く末がわかっているし、作品内に描かれている技術者としての堀越像(そしてカプローニによるメンタリング)が見事なほどにナイーブ。役に立つ道具でも兵器でもなく、美や夢を追求するという。実際、作中で堀越は飛行機をみて「美しい」「綺麗だ」としか言わない。たぶん、実際そうだったんだろう(少なくともそういう人はたくさんいたんだろう)なと思うだけに、これは辛い。F号研究に携わった研究者たちも、フォン・ブラウンもそうだったのである。「夢のために力を尽くせ」というのは大変に美しいが、あの時代はその夢の後ろに夥しい死体が転がったはずなのだ。だからといって、技術者や科学者の動機付けを糾弾すれば済むのかというとそういう問題でもない。どうすればあんなことにならなかったのか、というifの話は大変に難しい。

監督が2011年に書いた企画書というのを帰宅してから見たら「自分の夢に忠実にまっすぐ進んだ人物を描きたいのである。夢は狂気をはらむ、その毒もかくしてはならない。美しすぎるものへの憬れは、人生の罠でもある。美に傾く代償は少くない。二郎はズタズタにひきさかれ、挫折し、設計者人生をたちきられる。」と書いてあった。その意図は見事に果たした映画だと思う。私自身にはおなじみの感覚である。あの時代の科学や技術の歴史を研究する者には避けて通れない、人間の本性への疑いというか諦念とは少し違う悲しい気持ちというか、そういう類いのものである。 

出る人出る人、資産家やエリートばかりで、それもちょっと印象的だった。あの時代に旧帝大出て「英才」と呼ばれるとかって相当エリートだし、どの家にも「ねえや」や「じいや」がいる。そのような高い社会階層の人たちの物語が美しく描かれ、あの当時の戦争と社会状況がちらほらとしか見えないというのも、逆にリアルで堪えた。そういえばまだペニシリンもない頃である。『魔の山』がサナトリウムの話だと気付いた観客はどれほどいただろうか。堀越の仕事への没入の仕方も印象的である。あんな人はちょっといない、と普通の人は思うだろうが、自分に割とああいうところがあるのでそういう意味での違和感は私にはあまり無くて、菜穂子をある意味犠牲にするのもまぁそうだよなと思ってしまうのだが。とにかくしつこいくらい乗り物の描写がある映画だった。飛行機に汽車にバスに車に自転車に。監督は乗り物の技術に対して強迫症気味なのではと思ったほど。

まぁ私にとっては主題の相性が悪い。あの時代を持ちだされると、頭をよぎる背景知識が多すぎる(逆に言うとその辺の教養がないと見辛い映画ではあるかもしれない)。物悲しく美しい話ではあったが、どこを切っても主人公の夢にしか救いが無く、楽しくはない映画であった。兵器は好きだが戦争は嫌い、という気持ちはけっこうよく分かる。自分も研究してても戦争は嫌いなので、資料を読んだり見たりして気分が悪くなることもしばしばで、この研究対象のスコープはあんまり自分に向いてないかなと思うこともあり、そういうことを思い起こさせられる映画でもあった。飛行機が落ちる描写は辛かった。