暖かいお天気

朝から等持院に行った。今日は、書評の編集委員会で一緒だった同僚(後輩)の納骨法要だった。去年の6月初旬に亡くなられ、その時はお通夜に参列したのであった。彼女と同じ研究室で、かつ同じ編集委員だった元同僚から法要の連絡を回して頂いたので、厚かましいかと思いつつ参列させて頂くことにした。等持院足利尊氏の墓のある門蹟だが、お庭も池も新緑がとても綺麗だった。ご両親に挨拶し、研究室の方々に自己紹介し(私のペンネームも一部に知られていた模様)、ご住職が法要を執り行われるのに参列し、それから墓地に行って納骨に立ち会い、手を合わせた。等持院の墓地は、なんと立命館大学のキャンパスをつっきり、大学敷地内にあるのだった。大学側との取り決めで、24時間いつでもお参りできるらしい。その後、近くの料理店で会食であった。色んなお話を伺った。卒業直前に病を得られたこと、就職されてから山登りしたりマラソンしたり旅行したり大変精力的に活動されていたこと、じつはお茶の師範の免許を持っていたこと、ご両親には密葬にしてほしいと希望されていたことなど。病気は乳がんだったのだそうだ。手術し、再発して亡くなられたとのことらしい。フィットネスの恩師鴇田先生と同じなのだった。鴇田先生は亡くなられたとき40代だったと思う。彼女は28歳だった。

ご両親が、彼女のことを「覚えていてください」と主旨のことを仰ったのを聞いて胸をつかれた。思えば、友人・先輩・後輩の死に際し、ご両親を弔問するごとに、皆ほんとうに同じことを仰る。いちばん初めは高校のとき亡くなったMちゃんの家を弔問したとき。後輩Sちゃんの実家を弔問したときも、先輩TKさんのお別れ会でも確かそうだったと思う。去年同期I君の実家を弔問したときもそうではなかったか。ご両親は必ずそう仰る。結局、他界してしまった友人にできることといえば、ただ覚えていることしかないのだけれども。

17歳のときにMちゃんが亡くなってから、サークルの先輩Pさん、後輩Sちゃん、先輩TKさん、高校時代からの友達Sちゃん、同期Iくん、そしてこの後輩Rさんが他界し、学部時代に参加していたゼミのメンバーのうち、どうやら2人ほど既に他界しているということを聞き及ぶに至り、いつ自分の番が来ても全くおかしくないと心から思わずにいられない。みんな、20代や30歳そこそこで亡くなっている。彼ら彼女らだって、これほどにもあっけなく他界するのであるから、自分だっていつ死んでもおかしくない。いつ何どき死んでも悔いのないように毎日生きるのが肝要だ。友達の棺に手を合わせ花を入れた場面を思い出すたびにそう思う。

 

 夕方からお稽古サークル同窓会の役員会に出席。その後、若手役員だけでスタバで2時間ほど話した。腰はまだ痛いが、2度の会食とスタバでの会話に耐えられるほどには回復してきた模様。