ちょっと暑かった

本日勤務デー。昼は某プロジェクトミーティングで、学会発表の段取りについて相談。午後からはいつ誰に言ってもびっくりされる懇談会。自己紹介で、時間を引き延ばせと言われて、なんとか10分くらい壇上で話したり、障害をお持ちの関係者とお話ししたりも。夕方から懇親会で、アイスクリームいっぱい食べてやった。今日の壇上での話は評判がよかったらしい。目立つ行動を取ること自体は平気だが、それで自分のキャラクターが評価されて色々言われるのはあまり得意でない。二次会も行った。先週からのことや授業のことについて、ベテランの先輩方からアドバイスを貰えたのは良かった。一点のみ、帰る前1時間から道中にかけて、かなり不快なやりとりがあり、一晩寝てもまだ気分がわるい。

例えば、泥酔して駅のホームを歩くことについて、自分には線路に転落して電車に轢かれて死ぬ自由がある、というのは自由の権利として認めてよいのか。私の考えでは、明らかに自己不利益の範囲を超えて他者危害原則にひっかかるので、周囲のものがパターナリスティックに駅のホームを自由に歩く行為を制限したとしてもそれは仕方ないと思うのだが、そこで何故「泥酔する権利について理解が足りない」旨の説教をされねばならぬのか、それこそ私には理解できない。不愉快のポイントはそこだけではないのだけれども。

総じて私は、強く、理性的かつ論理的で、社交的で、「普通の人」が辛いと思うようなことを辛いと思わない、人の気持ちの分からない人間であると言われることが非常に多いのだが、その項目が正しいかどうかは別として、「強い人間であるあなたにはわからない」という言葉が大嫌いである。別に強かろうが強くなかろうが、他人のことなどわからない。心の中など忖度できない。誰とであってもお互いにそうであろうと思う。他人の心の中など分からないのが当たり前で、それでもコミュニケーションを試みるのが人間関係というものだろうに。それを、自分は周りのことがわかっていて、周りの人は自分に本来共感するはずだと信じている人から、「あなたは何も理解していない」と言われ続けることの苦痛…。こちらがどんな反応を返しても無駄であって、向こうから一方的にボールが投げられ続け、そのボールを受けられていないと責められるというこの状況は何なのか。コミュニケーションする気があると思えない。その上で、他人の心の分からない人間は強く冷たい人間だみたいなことを仄めかされても、私にはどうしようもないし、何故自分のことを理解してくれないんだと延々訴えられても、どれだけ想像力働かせても違うと言われてしまっていかんともしがたい。私はそういう絡み方は他人には流石にできないけれども、その人については自分が何をしても愛してもらえるという自信があるということが感じられて、すごいなあとその点は素直に感心した。まぁ実際私は強く冷たい人間なのかもしれないし? 私は普通の人なら感情的にとりみだすだろうシチュエーションでも割と冷静に合理的な行動をしてしまう、という傾向性ゆえに、割としばしば人間でないものを見る目で見られるのだが、あれはなかなか苦痛で、今日もけっこう苦痛だった。