雪がとけかかる

今日はふつうに起きた感じ。起きたら外は真っ白だったが、気温が高いので昼間に半分くらいとけそう。実はこれが最悪で、夜のうちに全部凍結して氷になるので、道路がつるつるになるのだ。一週間くらいこういうのが続きそうで、どうだかなあという感じ。研究所で資料のリストを作ったりメール仕事をしたり。昼にちょっと歩いて牛乳などを買いに行ってきた。Katieに聞いたら夜はめっちゃ混むとのことで、昼間に行ったのは正解だったようだ。明日はThanksgivingだもんなあ。遅くならないように帰って、バナナくるみパウンドケーキを作りながら、お米を炊いてカレーを作り、ついでにココナッツクッキーも作った。バターが安いので思わずお菓子を作ってしまったが、全部自分で食べたら太って仕方ないので分けないと。

このところ、大統領選以来のいろんなことについて考えていた。ひとつは、米国でも(はからずしも)明らかになった、都会のリベラルなエスタブリッシュとか高学歴の人と、田舎で保守的な中流以下のあまり高学歴でもない人たちはわかりあえないんだ!みたいな言説についてと、日本人研究者の多く(というかほとんど?)が東海岸や西海岸に行っていて、どうやら田舎の人たちにはあまり会ってないらしいということである。

私は田舎の人たちに、たくさんとは言えないが会っている。そもそも中西部にいて、日本人コミュニティとは全くと言ってよいほど接点がなく、2008年から地元の教会に顔を出していたせいで、ミネソタ生まれミネソタ育ちの保守的クリスチャンには何人も会ったし、みなホームスクーリングだったりするし、そもそもアメリカを出たことがない、みたいな人にも何人も出会った。そのうちの一人に以前Thanksgivingに招かれたときには、見渡す限り畑と林しかないところを1時間くらい車で突っ走って、夜は天の川が見えるようなものすごい田舎のおうちで、お父さんがハンティングで捕ってきたという鹿のシチューをふるまってもらったりしたものだった。そういえばこないだもGarlic partyで農家の夫婦と話が弾んだ。そう、最近気づいたのだが、私は田舎の人と話が弾むのである。たぶん、HarvardだかMITだかのビジネススクール出て投資会社で働いた後には経済アナリスト云々とか、カリフォルニアでデザイン学んでNYCで広告の仕事してて、みたいな人より話してて全然楽しい。たぶんそれは、私がそもそも田舎の子だからなのだ、というのがこの2週間の発見であった。

私は漁村の生まれで、私が小さい頃には実家の周りには一次産業・二次産業に従事する人が多かったし、大都市からはちょっと離れていて景気のいい話はなかった。地元の中学があまりにも荒れていたせいで、ちょっと勉強できる子はみな私学に出て行っていたのに、まぁあまりやる気がなくて私は地元の中学に進学したのだが、そのときの同級生たちは、中卒で就職したり、漁師になったのではないかという子もいたり、高校中退で3児の母になっていたり、地域で一番いい高校に行った子もお父さんが亡くなって地元で飲み屋を継いでいたり(地元ほとんど唯一の飲み屋ではないか)、いまでも非正規職独身の女子が何人もいたり、とにかく高学歴とか都会の華々しい話とかとはあんまり縁のない空気であった。中学時代の私の親友は漁師の子で、最近あまり連絡を取ってないものの、前に留学から帰ったときにはちょっと一緒に遊んで、お父さんに朝採った魚を分けてもらったりしたものだった。うちは、同居の祖父が商売をたたんでからも米作りだけはやってたし、叔母の嫁ぎ先は和歌山の田舎で叔父はハンターで銃砲店を経営してたし、母の実家も奈良の田舎で回りは田んぼばかりで、まあ親類に高学歴が多いといってもやっぱり田舎の子だった。私はハンティングの話にもついていけるし、畑とか農業の話にもついていけるし、そもそも大都会東京じゃなくて西の方の出身だし、こちらの気のよい田舎の人たちと妙に空気が合うのかもしれない。きっと(私の同僚のように)首都圏出身で、大手私大を出て、学生時代はクラスメイトと週末クルージング(実話)というような人には想像できない世界なのではないのだろうか。とにかく幼稚園から中学まで地元だった、ということが私の人生では極めて大きな出来事だったのだと思う。社会的な上昇とか、都会的なキラキラとはちょっと異なる、地元で完結した世界を肌で知っているかどうかはたぶん大きい。

思えば、初めてそれを実感したのは高校に進学したときだった。180人中160人が内部進学だったのだが、「個性豊か」と銘打ってるくせにあまりにも皆似通った雰囲気で、本当に驚いた。個性豊かといっても、赤紫と青紫と藤色の違いみたいなもんで、紫色しかないやん、と思ったのを(文字通りに)覚えている。みなお金持ちの家の子ばかりで、大学に行くのも当たり前だった。代表委員会の議長をやるくらいの良識派(と私が思っていた)同級生と話していて「えっ、大学にいかない人って、本当にいるの?」と真顔で聞かれたときには二の句が継げなかったものだし、別の同級生が「日曜の夜は、お父さんと弟と三人で、チェロとバイオリン、ピアノで合奏するのが楽しみ」というのを聞いたときにもそんな人が実在するのかとずいぶん感心した。ちなみに、私の母校高校の人たちはジェンダーに関してはかなり保守的で、Y中教授がノーベル賞を取ったときには同窓会誌に「奥さんの内助の功にも注目!」(奥さんも同窓生)という見出しが踊ったし、同じ大学に進学した同級生男子から同窓生と結婚した直後に米国でPDをするという話をきいたときにも「ま、うちの奥さんは何のかんの言って仕事やめて、僕についてきてくれるしね」と満面の笑顔で何の屈託もなく言い放ったりしていたし、同じ同窓会で私は別の同級生から「研究もいいけど、もっと女の幸せを追求した方がいい」と真顔で説教されたりしたものだった。どうせ3年しかいなかったし、面倒だなあと思うと、だんだんと同窓会からは足が遠のくものである。いずれにせよ、私の母校中学と、母校高校は、同じ府内にありながら全くの別世界だった。これは高校に外部から入学した人なら、多かれ少なかれ感じたことではないかと思う。

私が2008年にこちらで地元の教会に顔を出し始めたのは、もとはといえば米国で学位をとった先輩たちが、創造論を信じるという米国田舎のクリスチャンについて「あのひとたちはバカだから」みたいなことを平気で言っていたからだった。本当にそうなのか、会ってみないとわからないんじゃないかと思って顔を出し始めて、付き合いが始まって、1年通って、日本にいた7年の間にもミネソタに来るたびに何度も会って、現在に至る。会ってみるとわかることもいろいろある(わからないことのほうがたぶん多いが、それはどの人間関係でも同じこと)。なぜそうしようかと思ったかといえば、私がエリート的な観点をあまり信じ切っていなかったからだろう。中学から高校にかけての経験がベースにあったのではないか、と今となっては思う。そんなわけで、米国がこれほどの社会的分断を白日のもとにさらしたとなっては、私はますます小中高大のエリート一貫教育には懐疑的にならざるをえず(もともと私は懐疑派だが)、それはむしろ社会によい影響を与えない可能性もありうると考えたりもするのだった。