抜けるような快晴

今日は寒かったが、真っ青な空でよかった。葬儀ということで朝7時半から式場に行き、私は待機係なので論文関係の仕事をしていた。式は11時からで、私の母方の親類(祖父含む)や、父方の大叔母、大叔父なども来ていた。15人ほどであった。お花は本人の好きな菊や蘭、ピンクの色がたくさんでよかった。昨日父が要らないと言ったという話をきき、とにかくこれがないと!と思い、実家からベートーヴェンの月光、バッハの平均律1巻1番プレリュード、パルティータのコピー譜を持参し、お棺に入れた。叔母には「ありがとう、よう入れてくれた、これで向こうでも弾ける」と言ってもらった。どれも祖母の好きな曲である。練習していたのも覚えている。

火葬・納骨・初七日までぜんぶやったのだが(晴れてすこし暖かくなったのがよかった)、4日前まで私の写真を見て笑っており、2日前まで生きていた人が、あっというまに骨になり、お墓に入ってしまうというのは、不思議なことでもあった。下顎の骨には歯が残り、故人のおもかげがあってなつかしかった。私が最後に直接会ったのは5日で、その日は調子がよくて、目も大きくきらきらとして、声にも張りがあり、私の髪留めをかわいいといってほめてくれたのが最後の会話であったのだが、あのようなひと時が最後にあった記憶というのは、たいへんありがたいことだと思う。

16時までには終わり、夏の式の話を従弟たちにして、祖父に「また春までに遊びにいくな」「春と言わずおいで!」というような挨拶をして散会し、私は両親といったん帰宅し、荷物をもって出立し、京都に戻った。家にいても寂しくなってくるので、しぎりーじゃの練習に行った。

祖母とは18歳で大学進学のために京都に出てくるまで実家で同居していたので、思い出は思い出しきれないほどある。祖母はピアノ教師で、4歳から10歳くらいまで毎日1時間ピアノのレッスンをしてくれた。祖母がベートーヴェンソナタを弾くのを、横で譜めくりしたりした。あいまにはレッスン室においてあるベゴニアやオリヅルランに水をやったり、背中立ち逆立ちで体操したりした。裏庭にはデイジーやチューリップや菊の花や桔梗を植え、蚊に刺されたらアロエの葉をとってぬってくれたりした。毎朝体操と乾布摩擦は欠かさない人だった。私と一緒に金魚池のよこで歌を歌って遊んだり、餅つきのときにはお米を一緒にといだり、夕焼けを眺めたりした。糠漬けと、大根葉の浅漬けと、菜の花の漬物、イワシのパン粉焼きとか、絹こし豆腐を浮き実にしたコーンスープ、お正月の黒豆(ストーブの上)などは忘れられない食べ物だし、よくみかんの皮やしいたけなども干していた。幼い私が泥遊びするのを見て、子供用スコップでもろみをすくってはかっていたなあというのも思い出す。おしゃれで、素敵なパステルカラーのセットアップを着て、きれいな帽子をかぶり、アクセサリーをしてお出かけしていた。女学校時代の友達とは生涯つきあいがあり、いつも楽しい思い出話をしてくれた。高校のころくらいからは、よく脚がきれいだとほめてくれた。戦時中に自分が勉強できなかったこと、祖母の父が女は勉強しなくてよいといい、隠れて勉強していたことをいつも話し、私が勉強するのをいつも応援してくれた。弁護士だった曾祖父のことをよく話し、私を「末は博士か大臣か」といって育てたのはこの祖母で、私が博士号をとったときには認知症も出ていたけれどもとても喜んで、自分の昔の青玉の指輪をお祝いにゆずってくれた。筆まめで、元気なころは毎日日記を書き、そしていつも万年筆で手紙を書き(アメリカまで送ってくれた)、私が京都やアメリカに行ってもいつも気にかけて、手紙やはがきやお菓子などを送ってくれたものだった。正義感が強く、ものをはっきりいう、天真爛漫なところのある祖母だった。

もう会えないのはさびしいが、人間は未来永劫ずっと生きるというものでもないので、これはものの理であり、年の順になっており、かつ90まで生きて、安らかな顔で他界したのでまことに有難いことと言わざるを得ない。生まれてこのかたほぼ35年、本当にいつも可愛がってもらってきたことを、とても感謝しています。